【特集】東芝の“光と影”を背負った男 「肩書コレクター」西室泰三の軌跡

記者会見する西室泰三氏=2007年の東証社長時代(左)、2015年の日本郵政社長時代(右)

 祭りみこしのように次々と担ぎ上げられ、ある時ふと気付くといなくなり、名前すらも語られなくなった。そんな財界人がいる。西室泰三氏。享年81歳。東芝、東京証券取引所、日本郵政のトップ、そして安倍晋三首相の「戦後70年談話」有識者懇談会の座長を務めた。「東芝の天皇」「肩書コレクター」という異名もある。役職にこだわる本人の性格もあったが、時の政権にとって都合よく仕事をまとめてくれる重宝な存在だった。

 「不正会計」「米原発事業で巨額損失」。2015年以降、東芝に暗い影が差し始め、屋台骨がむしばまれているのが分かったとき、政官界の担ぎ手たちは一斉に去っていった。11月30日、西室氏の「お別れの会」が都内で開かれた。安倍首相ら現政権の中枢メンバーは誰ひとり姿を見せなかった。「負の資産」を残し、何も語らず逝った西室氏の晩年にスポットを当てた。(共同通信=柴田友明)

 ▽社長の笑顔

 帝国ホテル本館2階の「孔雀の間」。11月30日正午、「西室泰三お別れの会」で参列者を迎えたのは、会を主催する東芝社長の綱川智社長と西室氏の長女だった。献花を終えた一人一人に謝意を述べる綱川氏の穏やかな笑顔は印象的だった。身内の集まりという安心感からだろうか。10カ月前とあまりにも対照的だった。米原発事業でつまずいて巨額の損失を抱え、決算発表が延期された今年2月14日の東芝本社の記者会見では綱川氏の顔は凍り付いていた。

 筆者は当時、その会見場にいた。会見時間が夕方にずれ込むドタバタぶりに、最初にマイクを握った記者は経営陣に向かって「反省してください」と言葉に怒気を含んでいた。名門企業まさかの転落ぶり、東芝が存亡の危機にひんしていることは誰の目にも明らかだった。家電、メディカル、虎の子の半導体事業を切り売りして、「東芝は何をする会社になるのか」と記者から問われ続けても、経営陣から明確なビジョンを示す言葉は出なかった。会見場に漂う虚無感、そして綱川氏は顔を終始こわばらせていた。

 西室氏のお別れの会の話に戻そう。献花後の宴会場では東芝OBらがあちこちで談笑していた。「こういう機会がないと集まれないから」。そんな声が聞こえてくる。会場正面に白い大型のパネルが設置され、「西室泰三の思い出」と黒い太字のタイトルの下に、幼少期から最近の西室氏の写真が掲載されていた。

 「中高生時代はバスケットボールに熱中」「慶早戦にて自治会委員長として塾長メッセージを代読」「入社2年目 貿易部の仲間たちと」「東芝アメリカ副社長時代 カーター大統領を迎えた晩餐会」「東芝社長就任時」「東芝府中ラグビー部日本選手権連覇達成時の胴上げ」「東京証券取引所 ニューヨーク証券取引所との戦略的提携発表」「日本郵政グループ同時上場」。まさに西室氏の絶頂期に至る軌跡。写真はそれを物語っていた。

 そのパネルの前で、西室氏の後任として社長を務めた岡村正氏(東芝名誉顧問)に出会った。岡村氏は日本商工会議所会頭を経て、現在は2019年ラグビーW杯をホスト国として迎える日本ラグビー協会の会長だ。西室氏以降の歴代社長が次々と経営責任を問われた中で唯一“無傷”だった。彼の西室氏への思いを聞きたくなった。

 テレビ局の若手アナウンサーが聞くようなシンプルな問いに、岡村氏は「こういう場で聞かれるのは…」と一瞬戸惑いの表情を浮かべた。そして意を決したように背筋を伸ばして答えた。「指導者として…指導者としては本当にすばらしい人だった」。

 ▽自責の念

 西室氏は10月14日、慶応大病院で亡くなった。4日後に新聞、テレビ、通信社が死去を伝えた。東芝は当初、遺族の意向として詳細を公表しなかった。10月20日になってようやく、「14日午後8時50分、老衰のため亡くなった」と正式に発表した。会社に君臨した西室氏の情報を出し渋る理由はよく分からない。

 筆者は10月に西室氏の3歳年上の実兄、黒板行二氏(元月島機械会長)にインタビューしている。西室氏は日本郵政社長だった昨年2月に入院。その後、親族らの説得を受け入れ、公職を退き、療養生活に入ったと伝えられる。

 ―兄から見て、どのような弟さんでしたか。

 「私たちは3人兄弟で、上の兄がいて、私、そして泰三、本当に仲のいい兄弟だったと思います。年に定期的に2、3回は会っていました。お互い仕事の話はあまりすることがなかったが、本当に(泰三は)よく働いてきたと思います」

 ―西室さんは学生時代、バスケットボールの選手として活躍したが、その後、筋肉が萎縮する病気にかかり足が不自由になったが、そのハンディを克服するように仕事に臨んだと聞いています。

 「(本人にとって)絶句するようなことだったと思います。患ったことは自分の胸の内にしまい込み、米国に行ってもひたすら働いてきた。人から頼まれたことは絶対に断ることはなかった。だから(さまざまな役職に)就いてきた」

 ―お聞きしにくいが、東芝の現状についてどう語っていたのでしょうか。

 「私たちには直接分かりませんね。至らなかった自責の念…それはあるかも」

 ―昨年入院されて引退したのも、ご親族の方の説得を受け入れたと聞いています。

 「(説得したということではなく)もうそんなに働かなくてもいいのだと、(私と)長兄とは話をしていました」

 ―最後に西室さんに会われたのは。

 「亡くなる前日でした。(10月)13日、(病床で)うっすらと目を開けてくれて、私が来るのを待っていたという感じでした…」

   ×  ×  ×

 経産省が旗を振る中、米国発の「原子力ルネサンス」に迎合して経営の柱に据えた原発事業のつまずきは、東芝の致命傷につながった。従業員19万人を擁した巨大企業はなぜ道を誤ったのか。…東芝のさまざまな側面に焦点を当て、筆者の東芝特集は続けます。7月18日にアップした【特集】東芝解体 マル秘資料が語る本当の「理由」(https://this.kiji.is/259938081387298817)もご参照ください。

「戦後70年談話」有識者懇談会の座長として安倍首相に報告書を手渡す西室泰三氏=2015年8月
西室泰三氏のお別れの会=11月30日、帝国ホテル

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