実は「ブラック職場」じゃなかった ピラミッド建設
古代エジプトのピラミッドの中で最大のものは、約4500年前にクフ王がつくった有名な「ギザの大ピラミッド」だ。このピラミッドを建設したときのベースキャンプと思われる古代都市を詳細に調べたところ、これまでのイメージを大きく覆す当時の状況が明らかになってきた。
エジプトの繁栄支えた港町
巨石を組み上げて高さ約150メートルのピラミッドを造るには膨大な労働力が必要だ。建設に携わった人々の大半はエジプト国民だったとみられている。彼らは奴隷同然に扱われる低報酬の労働者だったのだろうと、考古学者は考えていた。やせこけた、みすぼらしい身なりの人々が、鞭(むち)に打たれながら荷船から巨石を降ろして木そりに載せ、ピラミッドまで引いていたとみられていたのだ。
ところが近年、ギザの大ピラミッド近くにあった古代都市の発掘調査などによって、ピラミッドを築いた人々は精鋭の労働者集団であり、遠く離れた地域から食料や生活用品、建築資材を船で運ぶ交易も担っていたことがわかってきた。ピラミッド建設に不可欠だった労働力の高度な組織化と広大な交易網の構築が、何世紀にも及ぶその後のエジプト繁栄の基盤になったと考えられている。
この古代都市は「ヘイト・エル=グラブ」と呼ばれ、クフ王のピラミッドの南東約1キロメートルの場所に位置する。今はナイル川から離れているが、ピラミッド建設当時はナイル川に面した港町だった。
発掘当初は、よくて簡素な野営地程度、大したことがない建物の遺構がいくつかある程度だろうとみられていた。そうした建物で毎晩、貧しく身分の低い労働者が疲れ果てた体を休め、朝になると石を運ぶために、とぼとぼとピラミッドの建設現場に戻っていったのだろうと想像していたのだ。
ところが実際に発見された町は予想よりもはるかに立派で、周到な計画のもとで設計・建設された都市だった。
住空間も快適そのもの
労働者の居住区画は、通りの両側に細長い建物が立ち並び、それぞれの建物には炉床(炉の火をたく床)と労働者40人分の寝床、監督官用と思われる別室が1つあった。
遺跡の一角からはパンを焼くのに使われた壺(つぼ)などが見つかっており、パン焼き場だったと考えられている。パン焼き場の南には大きな建物があり、その隣には穀物貯蔵庫と思われる建物群や家畜を飼っていたと思われる囲いの壁があった。
ここで推定6000人の住人は快適に暮らしていたようだ。ピラミッド建設労働者は長い1日の仕事を終えた後、食事をしに町に向かったことがうかがわれる。パン焼き場から漂ってくるパンを焼く匂いなどが、今夜のメニューを教えてくれたことだろう。
(詳細は25日発売の日経サイエンス2016年2月号に掲載)