若いころから、同僚と酒を飲みにいかない。そういう場ではないと話しにくいと言っても誰とは飲んだが、誰とは飲まない、とは説明できないからだ(撮影/山中蔵人)

 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。前回に引き続き塩野義製薬・手代木功会長兼社長が登場し、「源流」である大阪市福島区にあった中央研究所の跡を訪れた。AERA2024年4月29日-5月6日合併号より。

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 21世紀を迎えるころ、事業の「選択と集中」と呼ぶ経営が脚光を浴びた。歴代の経営者が力を入れた事業であっても、赤字が続き、黒字部門の利益を相殺して出せるはずの賞与を打ち消しているならやめて、収益の高い事業へヒト、カネ、モノを集める。この手法を成功させて高い収益力と成長力を身につけ、飛躍した企業が続いた。

 2004年4月、大阪市福島区の中央研究所にあった医薬研究開発本部の本部長に就くと、20近くに広がっていた新薬の研究開発領域を、三つにまで絞り込む。「選択と集中」の研究開発版だ。どの薬の領域を選び、経営資源を集中させるか。当時の塩野元三社長と考えた。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

 ことし2月初め、新入社員時代から3度過ごした中央研究所の跡を、連載の企画で一緒に訪ねた。ここにあった企画部で、最初にやったのが糖尿病用ヒトインスリンの販売承認を厚生省(現・厚生労働省)から得る仕事。毎日のように泊まり込み、1年弱でやり抜いた。すると、発売後に患者や家族から感謝の手紙が届く。薬を創って世の中へ送り出す「冥利」を痛感し、以後の仕事の原動力となる。手代木功さんがビジネスパーソンとしての『源流』になった、とする体験の地だ。

居心地いい研究所を「塩野義大学」と呼ぶそこへ改革を導入へ

 阪神電鉄の野田駅から歩いて10分足らず。2011年度に大阪府豊中市の医薬研究センターに集約され、いまはマンションが立ち、創薬の拠点だった面影はない。でも、敷地の外を巡ると、新人時代のことも、ここで医薬研究開発本部長を務めた日々も、蘇る。

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